しあわせのカタチ

しあわせのカタチ

僕は幸せだ。

といっても、生活が裕福なわけでもなく、あらゆる欲望を満たせているわけでもない。

そんな次元の話ではなくて、

「夫婦ともに元気で仲良く、限られた時間で好きなことをして、同じ時間を笑って過ごす」

そんな当たり前のような些細な毎日を「幸せ」だと感じている。

他人から見れば普通に見えるだろうし、「そんなんで幸せなの?(笑)」なんて思うかもしれないな。

 

幸せのレベルを1~10の数字で表すなら、仮に僕を5としよう。

10を見据えて生きるなら、今の5は不幸かもしれない。

1を経験したことがあるなら、今の5は幸せだろう。

見る方向次第で、今の状態なんて簡単に変わってしまうんだ。

  

僕は5でいるこの現実が、当たり前だなんて思っていない。

7や10になりたいなんて望んでもいない。

明日には4にも1にもなり得ると思っている。

悲しい別れだって突然やってくるかもしれない。

だから5であり続けることすら、当たり前のようで難しく、脆く儚いものだと思うから。

その記事はコチラ

 

日々の生活の中で、ちょっと意識すれば小さな幸せなんてその辺に転がっているもので、それを感じられるかどうかが大事だと思う。

それを気にも留めず、意識せずに見逃して、他人の幸せをねたんだりする。

幸せを取りこぼすことこそ、僕は不幸だと思う。

 

他人のある部分だけを切り取って、「あの人は幸せでいいなぁ」なんて考えるのは無意味なこと。

自分にないものを全て持っている人なんて、まず有り得ない。

ましてや幸せを測るコップの大きさは人それぞれで、あの人の幸せをあなたのコップに注いだらどこまで満たされるか、なんて分からない。

ここまで満たされるんだろうなぁ、なんて想像して羨むなんて、意味なくない?

 

その人の持っているものを羨む。

その人の持っていないものを哀れむ。

こんな風に見る角度を変えるだけで、その人は幸せにも不幸にも見えるんだから。

そんな無駄なことで自分の幸福度を乱高下させてたら疲れちゃう。

だから僕は他人の幸せに興味がない。

 

僕が思う人生は、

上から見下ろすだけじゃつまらない。

下から見上げているばかりじゃもったいない。

 

回転寿司に行って、たまに500円の皿を食べて、「今日は贅沢しちゃったね」なんて言えるような毎日がいい。

ガチャガチャで、中に入っているものを全部取ってしまうよりも、5回と決めて回したほうが楽しい。

自分が食べたいものを食べるよりも、ワイフが食べたいものを食べているところを見ていたほうが美味しい。

こんなことでも、僕の幸せのコップは満たされていく。

 

持っていないものを哀れむのではなく、持っているものを見つめなおせばいいのに…。

以上、他人と比べて自分を不幸だと言ってやさぐれた同僚をみて、僕が思ったことでした。

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